人皇三十四代推古天皇の御子、聖徳太子御順見の折、駒獄牧場を通り山越えの際黒い名馬を見付け鞍を置きてこれに乗り国中順巡したと記されている。則ち甲斐駒出生の地であり、鞍を負わせし地を字鞍沢と称し、後攻めて切久保といい現在もこの地名は使われている。また甲斐惣記に、駒の井ガ池、駒の笹木の旧跡と記され、ありし昔が立証されてける。また太子山越えの地を祖師が入り祖師通りといい、峠を下りた地を黒駒といい今も村名として残されている。なお駒獄牧場を駒獄大野の牧とも称している。太子によって駒獄山蓮荘菓院が建立されている。 以降天武天皇白鳳六年役小角御順巡のみぎり自らの姿を彫刻して一体を建立安置し武井山龍光寺と称している。また以降眞宗祖、親鸞上人順巡の際改宗して眞宗と改めている。また和銅養老年中、行基彿法菩薩順巡の際地中より年経たる古木を掘り出し香王観音を彫刻し、また不動明王を彫刻して本尊となし、聖徳太子を彫刻、吉祥天女堂を再建して安置し駒獄山行法寺と唱えている。また大同年中弘法大師御順巡のみぎり御立ち寄りありて文殊菩薩の像を彫刻し、また昆沙門天の像、石の吉祥天女の像を彫り、また不動明王画像、日照大神の画像など弘法大師の自筆とされている。 保元中興開基日野見大臣のやから、大野對馬守重包が当寺を再建して、剣、石併、半鏡を奉じて、駒獄山大野寺と称している。これが現在ある大野山福光音寺の前身である。以来千年、ある時は火事に遭い、地震に遭い織田信長の乱入など幾多の災難に見舞われ、宝物の大半は失われている。しかし寺を愛し寺を守る住民檀徒の力によって、国の重要文化財としての指定を受けた吉祥天、多門天、持国天、また県の文化財としての香王観音、建造物としては毘沙門堂、鐘楼がかすかに昔の影を止めている。 また保元年中より武井村を区別して大野寺となっている。大野寺の地名、大野山の寺名は何れも大野對馬守の大野から名付けられたものである。大野對馬守大野山開山の時伊豆国般若院三代目住職賢安上人を招いて開山せりと記されてい隼なおこれが眞言宗の始まりとされ、檀徒を持つようになったのもこの時代からである。 重包公御城は金毘羅城と称し、今は尾山地内大野田にあり、金比羅権現を祭り戦勝祈願の神として崇拝していた。なおこの神は眞言宗の僧『法院』 によって祈祷されていたようだ。今も社を再興し尾山区に於て松明を焚き盛大な祭を行っている。大野寺分にも字、金毘羅城山という地名がある。 また城山内に「のろし」の跡ありその昔武田家盛りになる頃大野家の一門である、遠藤、能登の両名がのろし場の役を相勤めたわけであるが、武田勝頼滅亡のみぎり、織田の手の者によって殺害されている。よって能登打場とも称され平沢山の奥にある、保元年中開山賢安上人の行法場が我入道と称する小字にあり今もその地名が残っている。 この地に来たり数々の功績を残した大野家も応永三十年、子孫二階堂三河守の代に、大野寺山大雨のため流亡して采琶なる城、古き寺を後に移住し我が地を去った。そしてこの地を愛し、この地に生涯をかけた大野野馬守垂包の霊は、我々の先祖と同席した墓の片隅にねむり、こけむした粗末な石碑が時代の古きを物語っている。 それより以降、当寺は武田の戦勝祈願の寺としても崇拝をうけ甲府の元紺屋、古府中にも末寺を有してその一つは長勝寺という寺名で近年まで続いていたようだ。長勝寺とは武田が長く栄え戦に勝つの意味から信玄自らつけた寺名であると伝えられている。 大野寺は天正十一年中当山三十四代住職死去、三十五代住職未定の時織田信長乱入のみぎり焼失している。以降徳川様御入国のみぎり、代官小沢様、橿中総代が寺の再建を願い、御朱印地と三百文を賜っている。なお大野山盛りなりし頃は十六坊を持ち信仰の場として、僧の修行の場として各々の役目を果していたようだ。 十六坊とは、金全院、不動院、多門院、上無院、観音院、地蔵院、覚照院、宝陸院、上坊地、明王院、光明院、中禅院、文殊院、念併堂、寛殊院、藤堂のことであるが、今はその跡形もなく地名や畑の呼び名となっているに過ぎない。 これより以前の天正元年雷火によって寺は焼失して御経文をはじめ宝物のことごとくを灰に化したと記されている。この後の天正十一年信長による火打ちなど、当時を思うと一難去ってまた一難という不幸つづきの時代だったように思われる、寺の運営については、保元以降大野家、武田家からの禄をいただき、武田滅亡後は田中の奉行所を通じて徳川からの財源に頼ったようだ、それ以前については不明である。 大野山は他寺に秀でた格式あり、年々行われる田中奉行所の新年の儀には客人として招かれている、なお当時使われたと思われる乗駕籠が今も残されている。 これより年を経て木喰上人 『信仰』が訪寺して三日間の滞在をなし、説法、虫かじ等をした、と記されている、おそらくこれが大野山全盛の最後であったかも知れない。 この時竹居、八代、高家、尾山など近隣の村々から金銭、米麦、豆、等の寄進の数々があり、その受け入れ帳が残りありし昔を偲ぶ事ができる。 創立以来千数百年、現在五十四世となる寺も、以前に述べたような災害による彿像、古文書の焼失や無住の時代ありして苦からの全眺は望めない。現在三十町歩ばかりの山林を有するものの外材の輸入等により換金的な価値ははとんどない。寺ありて村あり、村ありて寺ありとまでいわれるように長きに渡って住民檀徒の手によって守りぬかれた寺も、終戦直後の農地開放という法の矢に下り田畑の大半ほ失われ、隆盛なりし昔の影は全くない。 慶長、元禄の二回に行われた御検地による寺嶺は、 境内、八千六百五拾弐坪 高 六拾七。石五斗七升八合四夕 と記されている。 寺の上にある林には"牛池"と愛称されている池があり、牛の舌から出るよだれのようにだらだらとした少量の水が絶えず湧き出し、寺をはじめその下々を潤している。 ◎福光囲寺の祭典 「大野山福光園寺」 の祭典について述べてみよう。 ・一月三日 大野山初護摩 大野山の御本尊である不動明王と昆沙門天王の祭であり、住職による護摩焚きが行われ、参拝者は様々の願い事をする。各家庭では蕎麦を食べる習わしとなっでいる。 この蕎麦を毘沙門蕎麦ともいい、現在もつづけられている。 ・四月八日 お釈迦様の祭 身長三十センチ位の釈迦の像を甘茶の入った器の真申に置き、願い事をしながら甘茶をかけ、最後にこの甘茶を持っていった瓶にいただいた。戦争の中頃より中止となり現在に至っている。 ・四月十三日 毘沙門天王の祭 一月と同じように護摩を焚き、家内安全、五穀豊穣のお札を檀徒各位に配布する。 戦後果樹が盛んになってからは、家内安全と果樹豊穣のお札に代わっている。 ・十二月三十一日 除夜の鐘 新年の幕明け一時間前に寺に集まり、本堂に於て住職による経があり、去り行く年に感謝し、新年の幸を願う。庭に火を焚き体を暖めながら前もって支度しておいた酒、甘酒の振る舞いを受ける。新年の明けを期して住職を先頭に各自願いを込めた鐘をつく。吉祥天女、持国天、多聞天の宝物が国の重要文化財に指定された八年前頃より鐘つきに訪れる人が遠方からも年を追って多くなっている。 |
この資料は大野寺在住の瀬戸旭重氏からお借りした資料から転載させていただきました。 |
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